ハイになる前に

「心ならもう決まってる 僕の前を僕の影が征く」

おもちつき……

お餅のこと。
買ってきたにしろ、家でついたにしろ、お餅があるって、どうしてこんなに嬉しいんだろうか。

冬休み。
祖母の家にずっと滞在する私は、その正月準備もつぶさに眺めていた。

中でも楽しみだったのは、お餅つき。
祖母の家に着くとすぐ「今年お餅いつつくとー!?」と必ず聞いていた。
だいたい、12月26日か27日。
カレンダーにも
「もち」
と書かれてたり、した。

祖母の家の餅つきは、昭和なつかし家電代表格の「東芝 もちっ子」である。
緑のボディに「切」「むす」「つく」のシンプルなスイッチ。
餅のようににゅ〜っと伸びてるロゴも好きだった。

餅つきの日。
私がその辺で遊び散らかしているうちに、いつの間にか祖母が作業を始めていた。
洗ったもち米をもちっ子にセットして、蒸し上げる。
蒸し上げ時間やつき時間の設定とか、餅がどうなったらゴールなのかとか、詳細はよくわからない。
確か、蒸し上がったら「ビーーーーー」という、けたたましい音が鳴っていたような。
でも音がなくても、蒸し上がるにつれて広がるもち米の甘い香りで、(おっそろそろだな)と分かる。

フタを取ると、内釜でもち米がホカホカのツヤツヤに蒸されている。
この段階では、見慣れた炊きたてご飯と大差ない見た目。
しかしボタンを押して「つく」が稼働すると、デデデデデデという唸りとともに、もちっ子が振動する。
ここからのもちっ子の作業を、じっと観察するのが私の常であった。

見ていると、めざましき餅質が発動し、だんだんだんだん、米つぶたちが一体化していく。
もち米のかたまりが、ある限界を超えた途端「シュルシュルシュル〜〜」と下からひっくり返り、激しく内釜の中で回転する。
かと思うと、また止まったまま内部をデデデデと揺さぶられつつ、じりじりねじれ、内釜にひっつきもっつき、しながら、米つぶが見えなくなっていく。
そのうち、取り残された米つぶだけが単独で丸まったりして、なかなかそいつを本体が吸収できなくなったりする。
私はいつも、そういう小さなまとまりが早くなくなるように
(がんばれ〜、がんばれ〜〜)
と、餅本体の応援をしていた。

餅の肌がきめ細かく、一つの米つぶも見えないツヤツヤの輝きをたたえる頃、スイッチを切る。
つきたてのお餅は熱々だが、「鉄の手」の異名を持つ祖母は難なくつかみ上げる。
打粉をしたテーブルにどーんと置くと、まずは鏡餅
玄関と座敷に大きな鏡餅が1組ずつと、2箇所の神棚や家中のいろんなところに小さめの鏡餅を何組か。
多分最初の3回分くらいはすべて、鏡餅になっていた。
祖母によると、上の段と下の段の大きさは、あまり差がないようにするほうがカッコいいのだとか。
鏡餅の絵を描く時、いつも上を小さく描いていた私は、そうなのか……と思ったものだ。
できた鏡餅は、乾燥させるために長い木箱に並べられる。
寒い部屋に木箱のまま並べられ、眠っているようだった鏡餅たち。
翌日にはよく、固まったかな?とこっそり触ってみたりした。
正月には裏白や橙を乗せられ、すっかり晴れ姿になった鏡餅を見るのも好きだった。

年末年始にみんなが食べるお餅はそのあと。
「鉄の手」が、大きなお餅の端っこをきゅっとしぼり、1個分を次々とちぎってテーブルに置いていく。
そこからお手伝いの私の出番である。
ちぎったところのお餅の乱れをならしながら、両手の中でくるくると回して丸める。
しかしそこは子供のこと、あまり上手に丸められない。
祖母の華麗な手付きを一生懸命真似するが、とても同じようにふっくらつやつやとは丸められなかった。

後半のお餅には、祖母手作りの極上こしあんが詰められる。
あんこを1個分ずつ、はかりも使わずに餅とピッタリの数に丸めておくのは祖母の得意で、餅やあんこが余るということが本当になかった。
餅であんこをくるみ、うまく伸ばしながら入れ込んで丸めるのも、私はとうとう祖母ほどうまくはできずじまいだった。

あんこ餅は、例によってまず神棚に上げられ、お茶を入れたら祖父も呼んで、楽しい味見の時間になる。
白餅は必ず砂糖醤油と海苔で、神棚から下げてきたあんこ餅も必ずよばれる。
もち米からの経緯を見てきたつきたてのお餅は、どこかしら米つぶの気配を感じるような、少しムラがあるような伸び具合だった。
あんまりにもおいしくて、私はよく「ほっぺたが落ちるうう〜〜〜」とはしゃいで食べた。

これらの餅は、小分けにして冷凍され、数日後の正月のお雑煮に入れられる。
しかし私は一足先に、年内に思う存分お餅を楽しめる身分であった。
お餅を頬張りながら、あと何日したらいとこが来る、おじちゃんおばちゃんが来る、早くその日が来ないかな、とワクワクしながらカレンダーを眺めた。

お餅があるって、どうしてこんなに嬉しいのか。
単純に食べ物として大好き、というのもあるけど、年末年始にみんなが集まる楽しい時間に向かって、ひたすら期待が高まった日々の記憶が、私の細胞のどっかに染み付いてるのかもしれない。

今の私はもう、お餅は餅屋さんから買ってくるようになってしまったが、店頭であの長い木箱を見ると、あの頃のお餅つきの光景を思い出す。
同じようにはできなくても、心のなかで思い出ごと、楽しんでいる。

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がんばるもちっ子