ハイになる前に

「心ならもう決まってる 僕の前を僕の影が征く」

【ネタバレ断片感想その2】この、世界の、片隅、

やっとこさ、2回目観てきた

1回目鑑賞後、感想を書いてから原作を、いや絵コンテ集も読むぞ!と意気込んでいたが、結局どちらも見てないままである
気付かなかった場面や、お気に入りのシーンなど、絵コンテ集なら一目瞭然だろうが、映画そのもので補完する贅沢を働いちゃろ、と思ったのである
それはおいしいものをちょっとずつへずりながらよばれたい気持ちに似ている…

ただ、ネットで流れてきた考察や批評、評論なんかを幾つか読んだ
面白かったもの(【注意】以下リンク全てネタバレあり!)↓↓

gendai.ismedia.jp

magazine.manba.co.jp

holozoa.hatenablog.com


2回目は、筋を追わなくていいのでだいぶ余裕ができた
とりとめもなく思ったことを、またまた、原作・絵コンテ集を見る前のお脳で、書き留めておこうかなと…

これを書いたらやっと!やっと原作が読めるぞ!早くしろワシ!!!
(ちなみにパンフはまたも売り切れ…入手できるのか…!)

※以下映画「この世界の片隅に」のネタバレあり感想です
未見の方は見れる体になってからお越しくださいませ※

 

【カゴの中の2人】
前回、周作さんがすずさんを見初めた場所について全く!気付かなかった
ワシが鈍いだけとも言うが、それもくやしいので、なぜ気付かなかったのか、どのくらい巧妙に隠されていたのかを観察するべく、意気込んで該当場面を見たが…
…当然、観察する必要もないほど、ちゃんと周作さん丸出し顔の少年だった…w

…とはいえ、ちょっと分かったこととして…
名前をどこで知ったのか、と驚くすずさんのセリフにかぶるのは、すずさんが描いた絵の中の、すずさんの服の裾に書かれた名前だった
ここのパート、なんというか、現実の体験の回想として話が進む部分と、すずさんの絵で話が進む部分が混在していて、すずさんの話が、現実の体験なのかすずさんの作った物語なのか、判然としないような演出になっていた
観客が映画の語り口調にまだ慣れていない初めのうちに、こんな飛び道具のようなやり方で織り込まれていたら、そりゃあ記憶の向こうに追いやられるよね…と思った(負け惜しみ)
ともかく、ワシはここの演出でバッチリ煙に巻かれたわけである(…敏い人は多分、北條の人が浦野家に来た時の「どこかで見初めて」+周作少年の顔でピンと来たはず…)

【お姐さんの香り】
花街のお姐さんたちの、こっくりした脂粉の香りが、ポワポワ〜〜ンと空中に舞い踊るお花の形で描かれていて、それがめっちゃかわいかった、というのを、1回目鑑賞後の感想に書き忘れた
香りを花で表現するのは定番で分かりやすいし、多分原作でもそう描かれているのかもしらんけど、やっぱり「香りが花の形で目に見える」というのは、香りの強さや、すずさんの生活とのかけ離れ方が、いっぺんに説明される感じがする
さらには、道を聞いてもみんな全然あてにならない感じ、香りだけではなくアタマの中のお花まで表しているようで、これまたすごい説得力だった(道が分からないのは別の事情があるのだけども)

【継ぎ】
焼夷弾を衝動的に消火したすずさんのワンピース、というか、アッパッパ?
後日のシーンで、消火時に燃えていた裾がざっくりと、別布で継ぎ足されていることに、1回目は気付かなかった
それはエンドロールで、晴美ちゃんの吊りスカートが丁寧に継ぎ足されて、新しくやってきた家族のワンピースに直されている絵に繋がり、この映画の隅々にまで行き届いている「整合性」みたいなものが思い起こされた
この程度の整合性でいちいち感激してたら身がもたない映画ではあろうが、いっぺん、この種の「整合性」の工夫すべてを一覧にしたものを、見てみたい、と思う

…でもまあそんな一覧、無粋の骨頂かな…
自分ひとりで気付いて、おお…と唸るところに醍醐味があるのかも…

【分からなかったところ】
どの辺か忘れたけど、自転車に乗った女の人(誰?)が何か大声で言いながら、歩いている女の人(誰やっけ?)を追い越して、径子さん?が驚いて、はがきを持って慌てて道を駆けて降りていく?みたいなシーン(雑な説明)…
ここは2回目でも、何が起こってるのかやや混乱した
でもこれ書いてて思い出したが、その後お父さんの行方が知れた場面になるんやったっけ…?(原作見ればすぐ解決だけど!)
そういや、あーお父さんの病院が分かった、という話やな、と認識が戻ってくるまで、1回目の時に結構ヒマのかかった記憶があるので、ここが直前のシーンだったとしたら、混乱を引きずってた可能性があるか…
こういう、一要素がすごく短いカットが何層にも重なって話が進むので、一瞬、今の誰だっけ、とか、今のは何の名前だっけ、とかやってると、あっという間に置いていかれる
(1回目の時は「えば」「くさつ」を地名と認識するまでちょっと時間がかかったり「くろむら」を地名と思って混乱したり…鈍さ全開!)
とはいえ、この情報量の多さと構成は、観客を信頼しているからこそ成し得ることで、かといって本当に見失わせてもダメやし、作り手の人はホント、すごいなあ…と思う
個人的には、回想シーンが多い作品はすごく苦手なので、このくらい突き放してくれてる方が好きである(どの口が言うか…w)

あと、エンドロールに出てくる男の子について、1回目では「えっと…誰?」やったが、2回目見て「あっ!もしや黒村の…!?」と思った
ので、それをみゃ様に言うと
「…それは原作を読めば分かる」
と思わせぶりなことを言われたので、やっぱり違うのかな…?原作に期待…!

【意識の光】
あの爆弾が吹き飛んだ後の、闇の中の火花=意識のモチーフを、今回はじっくりと、よくよく見た

目まぐるしく飛び散る光
ジジジ、パチパチ、という音
何の脈絡もなく浮かんでくる、お裁縫
繋いだ手や、道の二本線

そして、笹の模様が何度も見えた
笹…?なんだっけ、と思ったら、あの時着てた(例の径子さんにどやしつけられて丁寧に着物から作り直した)モンペの柄だった

この、思いもよらない、取るに足らないモチーフが、妙に強烈に頭に残る現象
無意識の境目で、そんな取るに足らないものたちが、少しずつ集積する感じ

このシーンは多分、意識がない状態から、意識が戻ってくるさまを描写していると思われる
ワシは幸いそんな極限状態は体験したことがないが、もし体験したらきっとこんな感じだろうというような、本能がそれを知っているような、感覚があった
というか、監督はそんな極限状態になったことがあるのじゃないか、「見てきたように描く」とはこのことか、と思った(原作の表現がどの程度なのかにもよるけど…)

それと言及はないが、人が現世に戻ってくる時に、意識が見る映像
ふと目の端に入ったものの、脳裏への残り方の、凄み
あの表現にはもう、驚き呆れて二の句が継げない、茫然自失、になった

【鷺】
ウチの近所の川や池には白鷺も青鷺も結構いて、ヒョコヒョコ歩いてたり、じっとしてたり、不意に飛び立ったりする
長い首は伸びていたりたたんでいたり、サイズがそこそこ大きくて、動きもゆっくりしているので、せわしなく飛び去る小鳥と違って見ごたえがある
だから、居るとつい、眺める
悠然とした佇まい、美しい飛び姿、見れば見るほど、昔からこの鳥に人々が親しんできたのが、よく分かる

この映画でも、鷺がよく出てくる
今より生息数がずっと多そうな雰囲気はあるが、人が近づいても意に介さず、人の営みに何の関心も示さず、シンプルに魚を食べて海辺を闊歩する
そのさまが、今ワシが見る鷺と何ら変わらなくて、妙に切なかった
すずさんもきっと、ワシと同じように、鷺のさまを眺めていたのかなあ、と思った
(納屋の夜、鷺の羽根で鷺の絵を描こうとして描けないすずさんだけど、顔周りはバッチリ記憶で描けてる辺り…)

鷺にとっては何の意味も持たない空襲警報の中、逃げろと鷺を追うすずさん
鷺は、幼い頃から見てきた故郷の景色のどこかに、いつもはまっていたアイコンであり、故郷からきた風であり、ここでむざむざ死なせるわけにはいかない、故郷の化身であり

1回目鑑賞時は、筋を追うのに精一杯で、ここのすずさんのことは、また目の前のことにふと没頭してしまう性格が出てしまったのかな…くらいに認識してた気がする
その後、周作さんとすずさんが感情を爆発させて激しくぶつかり合うため、なんとなく鷺の存在が吹っ飛んでしまった
2回目は、鷺の意味にピントが合ってしまい、ノドから涙がこみ上げてきた
飛び立つ鷺は一瞬で、すずさんが描いたかのような線にメタモルフォーゼする
それは、空襲に巻き込まれそうな現実の鷺が、すずさんの頭の中で、無事に広島まで飛びおおせる鷺へと変化する瞬間のように感じた
さらには、すずさん自身が、その鷺になって、まっすぐ江波へ飛んで行くような

あの鷺が、後ろめたさで一杯のすずさんを解放する何かであったことを、2回見てようやく理解できた(鈍さ…全開…)
結局すずさんはその解放を選択しないし、選択できなくなってしまうけれども

【ぼうっ、としちょるということ】
すずさんの、ふと気を取られ、没頭する、元々の性格
なんとなく、高野文子の作品を思い出した

中でも大好きな「バスで四時に」

棒がいっぽん (Mag comics)

棒がいっぽん (Mag comics)

 

目に映るもの、次から次に、気を取られて没頭する主人公が出てくる

冒頭から、手製服のファスナーの始末のことが頭を占めていて、バスに乗っても、座席のネジ、膝の上のおつかいもの、前の人の服の模様、次々に気を取られる
ふと過去の記憶が蘇ると、今度はそのことで頭が一杯になり、結果見事にバス停を降り間違える

この主人公の、意識のたゆたい
なんという、共感!!
共感で押しつぶされそう!!!!

ワシも割と、子供の頃からこんな感じである
何かをやっている時に、全然関係ない文字とか形とかに、ごっそり気を取られる
これは、片付けてるとつい出てきたアルバム見ちゃうよね、レベルのことではなく…
ちょっと目に入ったシールの素材がいやにツヤツヤしてて、いろいろ写ってるなあ…このサイズならどこまで映るのかな…とか、汚れの形がうさぎだな、とか、こんなところに溝が切ってあるけど、デザインのためか実用のためか…とか、いやいやいや、今そんなこと考えてる場合じゃなくて…
つらいことがあったりして、とてもショックを受けてる最中、ふと見た金具が顔に見えるとか、いやいやいや、今そんなこと考えてる場合じゃなくて…!

と、いうことが本当によくあって
高野文子の作品を見るまでは、そういう、雰囲気のもの(うまく言えない)を表現したものをあまり見たことがなかった
だから驚いたし、すごく好きになった

爆撃の色の煙を見たすずさんが「ここに絵の具があれば…」と思った瞬間、いやいやいや、と思う一連のアレも、すごく、ピンとくる、「わかる」感じがする

1回目鑑賞後の感想に書いた、長崎の原爆を有明海の遥か対岸から見た祖母が「キレイだった」と称した、やるせない恐怖とも、遠からず繋がっている話かもしれない(ただしこの時の祖母は、それが新型爆弾とは当然知らない)
ただこの映画において、呉の空襲の色とりどりは、いつか夢で見たような空恐ろしさ、死の恐怖と隣り合うグロテスクな美があったかもしれないが、広島の新型爆弾の方はもう、得体の知れない『何か』のようにしか描写されない
爆弾の規模の違いもあろうが、荒尾から見た長崎の原爆と、呉から見た広島の原爆の、物理的・心理的な差なんかを思った*1

すずさんが「絵を描ける」ことは、今なら、スマホを持ってるような状況に近いかもしれない
我らが珍しいものを見た時に「ちょっと撮っとこう」的な感覚で写真を撮るように(それはしばしば不謹慎な状況も生み出す)、絵として自力で記録に残せるわけである
だからあれは、頭上で死が大量に爆発しているのに、その煙の異様な美しさを、手持ちの記録媒体で「撮っときたい」と思ってしまう感覚なのだと、言えなくもないかもしれない

…しれないが、ここまですずさんの「気を取られる」姿を見てきたワシにはやっぱり、命の危険がある(しかも晴美ちゃんがそばにいる)のに、現況と極端にそぐわないことに心を奪われるすずさん、というのが、しっくりくる

意識が戻った(?)すずさんの床の横で、径子さんが慟哭してなじる、耐えられないようなつらい状況の最中、この人は周作さんによく似てる、というモノローグが飛んで来るのも、やっぱり、すごく、「わかる」

こういうの、どの程度一般的な感覚なんだろう…?
どんな人も、死の恐怖と隣り合わせになった時には、感覚が異様に研ぎ澄まされて、普段なら気付かないような細かいことも、情報として入ってきてしまう、ということは、あるかもしれない
それとも、莫大なストレスから瞬時に逃避するために、脳が一気に舵を切るべく、無関係などうでもいいものを認識するとか…?

普段のすずさんの「ぼうっ、としちょる」は、上記のような「バスで四時に」で描かれたものとはまた違うかもしれないけど、すずさんが感じた爆撃の美は、日頃のすずさんの傾向も、多少は関係しているような気がする

【終わりにぶち込まれる強烈なファンタジー】
すずさんと周作さんが出会った時のバケモンが、二人の後ろを通過するシーンで
(ああーーーーっ!!あの時かーー!!気付かんやったーー!!!)
と興奮するあまり、その後もう一段控えていたグッと来まくりポイントを、1回目見た後の感想で書き忘れた

それは、バケモンのカゴの中から、すずさん作「鬼いちゃんの南洋冒険記」の、驚天動地の嫁さんが「ぱかっ」と出てくるシーン
ここまでの物語で、残酷さと絶望にさんざん翻弄されてきたところに、このシーンで冒頭の「現実か空想か判然としない」あの流れ、すずさんの頭の中が流れ出して現実とない混ざる流れに、再び引きずり込まれてしまった

この「物語の終わり近く、その展開にハラハラしたりヘトヘトになったりしているところに、さらに脳天をぶちのめすような(でも物語が台無しにはならないような)、とんでもない(でもそこまで見てきた人には分かる)ファンタジーが叩きつけられる」というの、映画「キャメロットガーデンの少女」のラストシーンを、ちょっと思い出した

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もう、ストーリーだけでクッタクタになってるのに、さらに追い打ちをかけるようにまぶされるファンタジーに、胸が震えて、震え過ぎて、呆気にとられて口ポカ〜ン、である
(ただし「キャメロットガーデンの少女」はもう、別の意味で途方もなくえげつない物語なので、鑑賞後の気分は本作とはまた全然違うし、本作の方がもう少し、繊細かつ複雑に感じるけど…)

「鬼いちゃんの南洋冒険記」は、もう描けなくなったすずさんの空想力が、一つも枯れていないことの証のように、画面に満ち溢れる(鬼いちゃんは昔から目が三角!)
そして、子どもの頃の「バケモンにさらわれた話」に、大人になってからも、戦争を体験してからも、右手を喪ってからも、変わったように見えて変わらないすずさんが作った物語が混じり合って、カゴからひょっこり顔を出す
そこにも、すずさんの人生の一側面が、一本の線として静かに横たわっているのを、見つけたように感じた

思い出せたところでは、こんなところ…
2回目も、揺さぶられるポイントがいっぱいあった
長い物語のどこを入れるか、どう入れるか、徹底的に考え尽くされた結果なのがよく分かる
油断してるとすっと抜け落ちるし、多分まだまだ気付いていない点がいろいろあるだろう
3回目に気づくこともたくさんあるだろうが(3回目も見る気満々)、とりあえず!

次は原作読んだるぞーーー!!!

あっでも絵コンテ集も…捨てがたい…どっちから見るべき…!? 

☆ 1回目鑑賞後の感想↓☆

at-avocado.hateblo.jp

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この世界の片隅に 劇場アニメ絵コンテ集

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この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック

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*1:荒尾ー長崎間:約75km、呉ー広島間:約25km、らしい